最終更新日 2021/12/31

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日本國とは

解釈

04

新唐書 日本伝 前編

「新唐書」の日本國伝を、重要な記事を中心に抜粋して見て行きますが、
興味をそそる情報が多くなっています。

日本古倭奴也。去京師萬四千里。直新羅東南在海中島而居。
東西五月行南北三月行。國無城郭聯木爲柵落。以草茨屋、
左右小島五十餘皆自名國 而臣附之、置本率一人検察諸部、
其俗多女少男、有文字尚浮屠法、其官十有二等、其王姓阿毎氏。

新唐書 日本伝

ここで、重要な文が「直新羅東南在海中島而居」です。

これを解読すると、「新羅の直にある東南の海の中に在る島に居る」となり、
九州のような大きさの陸地を「島」と表現するのは、不可思議です。

これこそ、南朝鮮の南岸にある諸島群を指しているのではないか?と思います。

だからこそ、「海の中に在る島」という表現になったのだと思います。

移動

この「日本」が、「天(あま)一族」の本家の一部だったとすると、
阿麻(あま)と阿毎(あま)」で紹介したPDFにある、
「イネの圧痕」の範囲に住んでいたのでは?と考えています。

ところが、列島(九州)よりも北の南朝鮮に居た為、
「寒冷化」の前兆の影響を受けて、南下をしないと、
寒さに弱い作物が作れないと考えたのかも知れません。

そうして、南朝鮮でも北部にいたが、徐々に南下し、
諸島群で落ち着いたのだと思われます。

あと、「寒冷化」の前兆により、食料問題が起こり、
各地で戦が起こった為に、南下する事情が出来たのかも知れません。
上記の様に考えていたのですが、
「神世7代までのまとめと時代考証」で、違う角度から検証した結果、
列島の「天(あま)一族」と、南朝鮮の「阿毎一族」との関係が微妙になりました。

他にも、南朝鮮においての「寒冷化」の影響がどの様に働いたかについて、
不明な点が多く、上記の「「寒冷化」の前兆の影響を受けて、南下」が、
正解に近いのかの判断が出来ませんでした。

日本の古倭奴也

「日本古倭奴也」の「古」とはどこを指すのでしょうか?

「古」がただ単に「過去」を指すのならば、
「倭奴國」の存在した時代によって変わります。

また、なぜ、「倭奴國」とせずに「倭奴」としたのかも疑問です。

もし、「倭奴國」とは別に「倭奴」が存在したのだとすれば、
新唐書の「日本」は、旧唐書日本國伝の「日本國」とは別に存在したのかも知れません。

なぜなら、旧唐書日本伝では「日本國」としているのに対して、
新唐書日本伝では「日本」としているからです。

そこから、新たに、旧唐書「日本國」と新唐書「日本」は、
同一なのか?と言う疑問が出ます。

当時、「國」を削除すると言う「意識の変革」でもあったのでしょうか?

東西五月行南北三月行

「東西五月行南北三月行」についてですが、北史倭國伝にも
「其國境、東西五月行、南北三月行、各至於海。」とあり一致します。

「北史倭國伝」と「新唐書日本國伝」にある「倭國」の国境の記載と同じということは、
「倭國」が「日本」に国名変更もしくは地域名変更が、起きたと考えれそうです。

しかも、「東西五月行南北三月行」を九州と考えた時、
九州は南北に長く、東西は短いので、
倭國の国境を九州に考えるのは、当てはまるようには思いません。

最後に、上記の3つのポイント全てが、
「倭國」の記事と一致と、九州と考えた場合の不一致、そこから考えても、
今回の場面をもって「日本=列島」と判断するには厳しいと考えています。

もう一点加えると、「國無城郭聯木爲柵落」の文の
「國が無く、木を聯(つら)ねて落として柵と為し城郭にす」は、
最低でも「出雲國」が、存在しているのだから、
この記事は明らかに列島を指していません。

これらの事から、やはり、南朝鮮の南岸にある諸島群を指す
可能性が強まったと思います。

参照3:北史 倭国伝

自言初主號天御中主、至彦瀲凡三十二丗、皆以尊爲號。居筑紫城、
彦瀲子神武立、更以天皇爲號、徙治大和州、次曰綏靖、次安寧、次懿德、次孝昭、
次天安、次孝靈、次孝元、次開化、次崇神、次垂 仁、次景行、次成務、次仲哀、仲哀死、
以開化 曽 孫女神功爲王。次應神、次仁德、次履中、次反正、次允恭、次安康、次雄略、次清寧、次顯宗、次仁賢、次武烈、次繼體、次安閑、次宣化、次欽明 、欽明之十一年、
直梁承聖元年、次海達、次用明亦曰目多利思比孤、直隋開皇末始與中國通。
次崇峻、崇峻死、欽明之孫女雄古立、次舒明、次皇極。

新唐書 日本伝

「皆以尊爲號」(皆、尊を以って號(よびな)と為す)についてですが、
本編の「天之御中主神の子孫」の「皆以尊爲號」 で説明しています。

補足ですが、日本書紀でも「命」を使っている事から、
本来、古事記にあるように列島では、「命」を使っていて、
本家のある南朝鮮では、「尊」が使われていたのだと思います。

天皇名の謎

今までに知られている天皇名と、所々に異なった場所があります。

「考安→天安」

「敏達→海達」

「用明亦曰目多利思比孤、直隋開皇末。始與中國通。」

「推古→雄古」

上記の様に4箇所あり、注目は3番目です。

原文:

用明亦曰目多利思比孤、直隋開皇末。始與中國通。

解読:

用明、亦、多利思比孤を見て曰く。
直ちに隋を皇末が開く國を通すに中たり、與(ともに)始める

この様に解読した場合、用明とは別に多利思比孤が存在し、
多利思比孤が隋と国交樹立に成功したので、
一緒に貿易をがんばりましょうと言ったと解釈出来ます。

他にも、「遣隋使」の情報が日本書紀に記載されていない事や、
記紀と古代中国史書の情報が、異なっている事を考えると、
天皇名が違うのは、単に列島の情報ではないからと言えます。

列島では「二つ漢字」の使用が無いが、本国南朝鮮は、古代中国に属しているために、
古代中国風の漢字が当てられたのだと思われます。

淡海三船が「神武」から「元正」までの漢風諡号を一括撰進したと云われていますが、
今回の記事を利用したのではないかと思っています。

そうでなければ、ここまで、同じ天皇名が多いのはおかしいでしょう。

淡海三船としては、記紀も読んでいて、新唐書日本伝に「天御中主」の名があったから、
それが自分の国の情報と思ったのかも知れません。

実際に、現代でも過去の列島の情報と捉えていますし、
淡海三船の生きた時代は、現代の様な便利な世の中ではないので、
情報を精査して、不思議や疑問に思う余裕も無かったと思うので、
自分の国の情報と考えてもおかしくありません。

これらの様に考えると、
今後、年代や世代等を詳しく、再調査する必要があると考えています。

永徽初、其王孝德即位改元曰白雉、獻虎魄大如斗碼碯若五升器、
時新羅爲高麗百濟所暴、高宗賜璽書、令出兵援新羅未幾、孝德死、
其子天豐財立、死、子天智立、明年、使者與蝦蛦人偕朝、
蝦蛦亦居海島中、其使者鬚長四尺許珥箭於首、
令人戴瓠立數十歩射無不中、天智死、子天武立、死、子總持立

新唐書 日本伝

この記事も、前回同様に「其子天豐財立」、「子天武立」、「子總持立」と
3箇所異なっています。

1つ目の「其子天豐財立」は、
「天豐財」が 斉明の「天豐財重日足姬天皇」を指すのであれば、
「孝徳の子」と表記するのは、間違いとなります。

それに、「皇極」とあるのに、「斉明」の名が無いのは不自然です。

2つ目の「子天武立」も、天智の子に天武はいないので、間違いです。

3つ目の「子總持立」は、天武の子に「総持」に関係しそうな人物を調べましたが、
見つからず、誰の事を指すのか分かりません。

ただ、「総持」の意味が、
「悪法を捨てて善法を持する意で、仏の説くところをよく記憶して忘れないこと。」
らしく、仏教に大きく関与した人物が、居たのかも知れません。

前回の記事で書きましたが、これらは列島の「天(あま)一族」の系譜ではなく、
本国南朝鮮で活動していた、「尊一族」の系譜なので、異なっていて当然です。

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