宋史
「宋史」の日本國の記事を抜粋して見て行きます。
倭國者、本倭奴國也。自以其國近日所出、故以日本爲名。
宋史
或云、惡其舊名改之也。
新唐書で「日本古倭奴也。」とあり、
今回、「倭國者、本倭奴國也」を書いているのを合わせて考えると、
元々、倭奴國として活動していたが、
対立などがあり、途中で倭國と領土を分けた。その後、倭奴國は存亡の危機 になり、
日本と名を変える事で生き延びた。
と、想像しましたが、
新唐書では「日本」も「倭奴」も「國」が付いていないのが気になります。
もしかすると、狭くても「日本」と呼ばれる地域や
「倭奴」と呼ばれる地域があったのだろうか?
初主號天御中主、次曰天村雲尊、其後皆以尊爲號、次天八重雲尊、次天彌聞尊、
宋史
次天忍勝尊、次贍波尊、次萬魂尊、次利利魂尊、次國狭槌尊、次角龔魂尊、
次汲津丹尊、次面垂見尊、次國常立尊、次天鑑尊、次天萬尊、次沫名杵尊、
次伊弉諾尊、次素戔烏尊、次天照大神尊、次正哉吾勝速日天押穂耳尊、次天彦尊、
次炎尊、次彦瀲尊、凡二十三世、並都於筑紫日向宮。
この記事で面白いのは、「天御中主」の後に「天村雲尊」が来たり、
記紀で初期に登場する「國常立尊」が13番目だったり、記紀とは大きく異なっています。
一つずつ見て行きます。
「尊」がないのは、「神」だからで、
「尊」の地位に居たことが無いからと推測出来ます。
記紀には登場しないが、豪族等の先祖として登場し、
先代旧事本紀:天香語山命の子として登場します。
どこにも登場しません。
同上
同上
瞻波国(せんぱこく)という國があり、「前600年ころ北インドに栄えた」ようですが、
天之御中主神が居た時代を「紀元前1000年頃」と考えると、現時点で関係は不明です。
先代旧事本紀において、
「天八十万魂尊」と「萬魂尊」が登場するが関係は不明です。
どこにも登場しません。
日本書紀の神代上で「國常立尊」に次いで登場します。
古事記にも「国之狭土神」が登場するが、関係は不明です。
どこにも登場しません。
同上
古事記で「淤母陀琉神」、日本書紀で「面足尊」とあるが関係は不明です。
古事記では「國之常立神」、日本書紀では「國常立尊」なんですが、
古事記では「神」、日本書紀では「尊」と階級が異なっていますので、
個人的には、「國之常立神」の数代後の子孫ではないかと考えています。
日本書紀では「天鏡尊」と音が同じ名があるが、関係は不明です。
もし、同一人物の場合、日本書紀の記載で、親は「國常立尊」になります。
ホツマツタヱでは
アメカガミの子、ウヒチニの養子となり、ソアサ (四国) を治める。
ホツマツタヱ
アワナギとサクナギを生む。
とあるようです。
他に、日本書紀に「天鏡尊生天萬尊」とあるが、現時点で関係は不明です。
読みが「あわなき」となる場合、日本書紀に「沫蕩、此云阿和那伎」とあり、
音は一致しますが、漢字が一致しないので、現時点で関係は不明です。
古事記の「いざなぎ」と同一と考える人が多いですが、
個人的には、その様に断定するには証拠の資料が乏しいと考えています。
日本書紀の時代の「伊弉諾尊」と同一人物なのか、
子孫なのかについては、現時点では判断出来ません。
伊弉諾尊同様で、「すさのお」が、
主に「建速スサノオ」、「速スサノオ」、「スサノオ」の三種の名を使用する中、
多くの表記で「素戔嗚尊」とするのは違和感があります。
それと、「素戔嗚尊」の表記が「素戔烏尊」と変わるので、
同一人物の判断は難しいです。
日本書紀編で考察します。
「天照大神命」と同義なので、これは明らかに不自然です。
「大神+命」は記紀でも記載が無く、
別資料があったとすれば、別人を考えたほうが良いかも知れません。
古事記「天忍穂耳命」、日本書紀「天忍穗耳尊」と記紀で漢字が一致していますが、
「天押穂耳尊」と「オシ」の漢字が異なっています。
どこにも登場しません。
どこにも登場しません。
古事記「天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命」、
日本書紀「彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊」と
同一人物と多くの人は考えていると思いますが、
「彦瀲」だけで特定が出来るのでしょうか?
「彦瀲」で通じるのに、なぜ、文字数が多いのでしょうか?
彦瀲第四子號神武天皇、自筑紫宮入居大和州橿原宮、即位元年甲寅當周僖王時也。
宋史
次綏靖天皇、次安寧天皇、次懿德天皇、次孝昭天皇、次孝天皇、次孝靈天皇、
次孝元天皇、次開化天皇、次崇神天皇、次垂仁天皇、次景行天皇、次成務天皇、
次仲哀天皇、國人言今爲鎮國香椎大神。次神功天皇、開化天皇之曽孫女、
又謂之息長足姫天皇、國人言今爲太奈良良姫大神。次應神天皇、
甲辰歳始於百濟得中國文字、今號八蕃菩薩、有大臣號紀武内年三百七歳。
次仁德天皇、次履中天皇、次反正天皇、次允恭天皇、次安康天皇、次雄略天皇、
次清寧天皇、次顯宗天皇、次仁賢天皇、次武烈天皇、次繼體天皇、次安開天皇、
次宣化天皇、次天國排開廣庭天皇、亦名欽明天皇。即位十一年壬申歳、
始傳佛法於百濟國、當此土梁承聖元年。次敏達天皇、次用明天皇、
有子 曰聖德太子。年三歳聞十人語同時解之、七歳悟佛法、于菩提寺講聖鬘經、
天雨曼陀羅華、當此土隋開皇中、遣使泛海至中國求法華經。次崇峻天皇、
次推古天皇、欽明天皇之女也。次舒明天皇、次皇極天皇、次孝德天皇、白雉四年、
律師道照、求法至中國、從三藏僧玄奘受經律論、當此土唐永徽四年也。
次天豊財重日足姫天皇、令僧智通等入唐求、大乗法相敎、當顯慶三年。次天智天皇、
次天武天皇、次持緫天皇、次文武天皇、大寶三年、當長安元年遣粟田真人
入唐求書籍、律師道慈求經。次阿閉天皇、次皈依天皇、次聖武天皇、寶龜二年、
遣僧正玄昉入朝、當開元四年。次孝明天皇、聖武天皇之女也。天平勝寶四年、
當天寶中、遣使及僧入唐求内外經敎及傳戒。次天炊天皇、次髙野姫天皇、
聖武天皇之女也。次白壁天皇、二十四年、遣二僧靈仙行賀入唐禮五臺 山學佛法。
次桓武天皇、遣騰元葛野與空海大師、及延歴寺僧澄入唐詣天台山傳智者止觀義、
當元和元年也。次諾樂天皇、次嵯峨天皇、次淳和天皇、次仁明天皇、
當開成會昌中遣僧入唐禮五臺。次文德天皇、當大中年間。次清和天皇、次陽成天皇、
次光孝天皇、遣僧宗 𥈠入唐傳敎、當光啓元年也。次仁和天皇、
當此土梁龍德中遣僧寛建等入朝、次醍醐天皇、次天慶天皇、次封上天皇、
當土周廣順年也。次冷泉天皇、今爲太上天皇、次守平天皇即今王也。凡 六十四世。
これは、列島人が遣使の際に、教えたのかと最初思いましたが、
やはり、記紀と比較すると、不自然な箇所があります。
孝安の箇所が「孝天皇」と表記されています。
神功皇后が「神功天皇」と
「開化天皇之曽孫女、又謂之息長足姫天皇」の表記があります。
「天皇」表記は良いとして、
「開化天皇之曽孫女」と「息長足姫」には不自然に感じます。
「開化天皇之曽孫女」とは、「開化天皇ー◯ー◯ー息長足姫天皇」と
置き換えられますが、神宮皇后の家系図と比較すると異なっています。
上記の系図は上が宋史の記事の系図化で、
下はWikiにある一般的な息長帯姫大神までの系図です。
比較すると一目瞭然で、宋史にある記事の方が、「2代早い」となります。
この、検証は今後の開化天皇の解釈で行います。
次に、「息長帯姫大神」と古事記表記しましたが、
「息長足姫天皇」も古事記表記と思われます。
しかし、2では、「尊」を使う日本書紀表記を採用、なおかつ、
この記事の最初に「彦瀲」と日本書紀に近い表記を使用しています。
ところが、なぜか、日本書紀の「気長足姫尊」を使わず、
「息長足姫天皇」と表記するのは不自然さを感じます。
名が似ていても、系統が異なっている可能性もありそうです。
安閑は箇所は「安開天皇」と表記されます。
欽明の表記が変わっています。
「天國排開廣庭天皇、亦名欽明天皇」とありますが、普通は逆ではないだろうか?
斉明の箇所には「天豊財重日足姫天皇」とあるだけで、
「斉明天皇」という表記がありません。
列島側から話したのならば、天皇名が個人名より先にくると思います。
持統の箇所には「持緫天皇」とあり、
「持統天皇」の間違いだとするサイトもありますが、本当に間違いなのでしょうか?
天皇としての在世期間が分からないので、判断出来ません。
元明の箇所は「阿閉天皇」と表記されます。
元正の箇所は「皈依天皇」と表記されます。
孝謙の箇所は「孝明天皇、聖武天皇之女也」と表記されます。
淳仁の箇所は「天炊天皇」と表記されます。
称徳の箇所は「髙野姫天皇、聖武天皇之女也」と表記されるが、
孝謙と同一人物かは不明。
光仁の箇所は「白壁天皇」と表記されます。
宇多の箇所は「仁和天皇」と表記されます。
朱雀の箇所は「天慶天皇」と表記されます。
村上の箇所は「封上天皇」と表記されます。
この様に、不自然な箇所を調べていくと、「15箇所」も存在していました。
今後、慎重に調べて検証するのですが、
今まで知っている歴史とは違う可能性が覗えます。