最終更新日 2021/12/31

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日本國とは

解釈

05

新唐書 日本伝 後編


咸亨元年、遣使賀平高麗、後稍習夏音惡倭名更號日本、
使者自言國近日所出以爲名、或云日本乃小國爲倭所并故冒其號、
使者不以情故疑焉。又妄 夸其國都方數千里、南西盡海、東北限大山、其外即毛人云。

新唐書 日本伝

この記事は、「遣使賀平高麗」(高麗、平(おだ)やかで賀し遣使す)から
始まっていて、唐の高宗李治に高麗の遣使が来て話した内容です。

つまり、列島人が話しした訳ではありません。

しかし、3箇所面白い事が書かれています。

夏音

1つ目は「後稍習夏音惡倭名更號日本」です。

「後に稍(ようやく)夏音を習い、倭名更に惡み、號(よびな)を日本とす」

参照4のサイトを見る限り、倭人は「夏人の末裔」と考えると、
「ようやく夏音を習った」とするのは、不自然に移ります。

そこから考えると、倭人は独自文化を形成し生活していたが、
他者である諸外国から見れば、「夏音」を使った生活をすれば良いのにと考えていた。

だからこそ、高麗の使者が「ようやく」としたのではないか?と推測しています。

「倭名更に惡み」としたのも、高麗の使者の感想である可能性があります。

一章考察完了後に、新しい考察から、
この文には今までの解釈とは違う意味がある様に思います。

「倭王家」の「阿毎一族」

「遊牧民」で、古代中国の文化を取り入れたので、
発展した生活基盤が存在した可能性があります。

倭人

南朝鮮に先住民として存在していたという話もあるので、
原始的な生活をしていた可能性があります。

まとめ

これにより、古代中国の発展した生活基盤を取り入れた「倭國」、
逆にその生活ではなく、古来から続く生活を良しとした「日本國」。

この様な関係があったのでは無いかと、推察する様になりました。

そして、「倭人」と言っても、千差万別なので、「夏人の末裔」も居れば、
「夏音」を知らない部族も居るのだと思います。

「高麗」の國の使者が話した時には、
「夏音」を知らない部族による「倭人」になっていたと考える事が出来ます。

参照4:夏 (三代)

参照5:わが国に夏音文字が伝来していた

日本の由来

2つ目は「使者自言國近日所出以爲名」です。

「使者自ら言う。國が近く、日が出る所を以って名と為す」

「日が出る所」から「日本」にしたのは、浅すぎると思います。

「日本」でなくても、「日出」で十分に国名の由来が想像出来るでしょうし、
「日が出る所」からなら、どこでも、「日本」を名乗れてしまいます。

多分、この使者は日本國に行って自分の目で見たわけで無く、
ただ、渡された情報を話しただけではないか?と想像しています。

小国

3つ目は「或云日本乃小國爲倭所并故冒其號」です。

「或いは日本、乃ち小国為りと云う。倭の所并せる故に、其の號(よびな)を冒す。」

「或いは」なので、2つ目の記事と繋がりがあるかどうか微妙です。

さて、もし、定説通り「日本」が近畿以西を指すのなら、「小国」と言えるでしょうか?

他国の人が「小国」と判断するという事は、面積が小さいのでしょう。

ならば、列島よりは朝鮮半島南端の諸島にいる、
倭國の近くにあった日本國と考えた方が納得出来ます。

長安元年、其王文武立、改元曰太寶。遣朝臣眞人粟田貢方物、
朝臣眞人者猶唐尚書也。冠進德冠、頂有華四披、紫袍帛帶、
眞人好學能屬文進止有 容、武后宴之麟德殿授司膳卿還之。文武死、
子阿用立、死、子聖武立、改元曰白龜。聖武死、女孝明立、
改元曰天平勝寶。孝明死、大炊立、死、以聖武女高野姫爲王、死、
白壁立。貞元末、其王曰桓武、遣使者朝、其學子橘免勢、
浮屠空海願留肄業、歴二十餘年、使者高階眞人來請免勢等倶還、詔可。
次諾樂立、次嵯峨、次浮和、次仁明、仁明直開成四年、復入 貢。
次文德、次清和、次陽成、次光孝、直光啓元年。其東海嶼中。
又有邪古波邪多尼三小王。北距新羅、西北百濟、西南直越州、有絲 絮怪珍云。

新唐書 日本伝

天皇の即位年

天皇の即位年の異なりは、大きな問題だと思っています。

特に天皇の即位年が異なるのは、新唐書の「天皇」と列島の「天皇」が、
同一人物では無いと言っているようなものです。

「長安元年、其王文武立、改元曰太寶」

長安元年(701年)に文武が即位したとあるが、
調べる限り、697年8月22日に即位したとあり、
4年の差が生じるので、同一人物とは考えづらいです。

「太宝」への改元も、文武が即位したからだと思われます。

ちなみに、「太宝」と「大宝」では意味が異なります。

「大宝」は「大きい宝」の意味しか無いですが、
「太宝」は「天子の宝」と置き換える事が出来ます。

古代中国にあった「天子思想」をWikiでは下記のように書いています。

周代、周公旦によって
「天帝がその子として王を認め王位は家系によって継承されていく。
王家が徳を失えば新たな家系が天命により定まる」という
「天人相関説」が唱えられ、
天と君主の関係を表す語として「天子」が用いられるようになったという。

Wiki

そもそも、「天皇」の文字も「天皇・地皇・人皇」の三皇からと考えれば、
「天子思想」が受け継がれている可能性もあり、
「太宝」の元号が作られても不思議ではないです。

歴代天皇名が異なる

これは、2と3でも異なっていますが、5の天皇名を書き出すと以下になります。

文武→(子)阿用→(子)聖武→(女)孝明→大炊→(聖武女)高野姫→白壁→
桓武→諾樂→嵯峨→浮和→仁明→文德→清和→ 陽成→光孝

2では「次」としか無く、3では「子」で繋がっていましたが、
5では、混合しているので、結構、権力争いが多く、
天皇の系統が安定していなかったのではないかと推測しています。

参照6:古代史獺祭 新唐書 卷二百二十 列傳第一百四十五 東夷 日本

高麗の使者(遣使)

新唐書日本伝で日本に関係のありそうな箇所を重点的に検証して来ましたが、
大きい疑問が残りました。

なぜ、高麗の使者が不自然さこそあれど、4の様な情報を唐への遣使で伝えたのか?

日本もしくは日本國の遣使が伝えたなら、自国ですから問題はありません。

しかし、高麗の使者は第三者ですので、戦争に使える情報なら分かりますが、
地理情報は大まかで、日本の由来も不自然、なぜ、この様な情報を伝えたのか。

そこで、高麗と唐の関係を調べていて、新たに疑問が出て来ました。

「高麗」:

918年に王建(太祖)が建国し、936年に朝鮮半島の後三国を統一し、
李氏朝鮮が建てられた1392年まで続いた国家である。

Wiki

「唐」:

唐(とう、拼音: Táng、618年 - 907年)

Wiki

上記の様に、高麗は唐が滅んだ後に建国されています。

つまり、咸亨元年(670年)に「遣使賀平高麗」と書かれるような
「高麗」の遣使が唐を訪れる事は出来ないという事です。

新唐書が「仁宗の嘉祐6年(1060年)の成立」のようなので、
歴史書に記載が無いだけで、「高麗国」が存在していた可能性も考えられます。

ちなみに、「三国史記」新羅文武王の十年に以下の文があります。

原文:

十二月 倭國更號日本 自言近日所出以爲名

解読:

十二月 倭國更に日本と號す

    日の出る所に近いを以って名と為すと自ら言う

三国史記

新羅文武王の十年は、661年6月に家督継承したようなので、
「671年12月」なのだと思われます。

今まで、古代中国の「旧唐書」や「新唐書」の様に、
「倭國→日本」に改めたと言う記事は存在しましたが、
「三国史記」の様に、「倭國」と「日本」の二つの號(よびな)を
使っていたとする情報はありませんでした。

しかも、「自ら言う」とも書いていますので、本当であれば、
古代中国史書に書かれた内容は、違う意味に考え直さなければ行けません。

これらの情報は、やはり、列島の情報と言うよりは、朝鮮半島の情報だと思うので、
列島の情報は記紀以外に無いのかも知れません。

今後、詳しく調査して、考察して行きたいと思います。

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